分野:哲学
課題:カント著『道徳形而上学原論』論考
字数:2500字前後
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地上にある物体は、物理学的必然性と数学的厳密性を持って、重力の法則を必ず受ける。それは、正確に計算され、演繹的に推論される結論として、明確にひとつの重力値を有する。これは、普遍の法則である。重力の法則を免れうるものはなく、時間的誤差もなく、それは瞬時に万物に等しく働く。物理が自然法則に支配されているのならば、人間的自由は倫理(道徳)に支配されているとカントは言う。星辰は厳然たる引力の法則で支配されている。地球は太陽の周りを回っていると言うが、宇宙空間の同じ点を通過するわけではなく、螺旋状に太陽の進行方向を追いかけているので、同じ空間上の点は、二度と過去にも未来にも通らないそうだ。しかし、毎年夏は暑く、冬は寒く、その年較差も、コンピュータで測ったように、近似値に漸近している。例えば、夏は暑いといっても、地上の同定点でのある年は最高気温が38度である年は65度、冬が寒いといっても、ある年は最低気温が零下7度である年は零下35度になる・・・ということはありえず、せいぜい数度、あるいはコンマ数度の誤差でしかないことは、驚嘆に値する自然法則の秩序である。また、日本での重力の法則で使用できた物理学の計算方法は、アメリカでも厳格に適応できる。
然るに、人間の自由の法則である、道徳に関してはどうであろうか。道徳の最高原理を究明したこの『道徳形而上学原論』では、人間の自由意志を支えるものとして、私たちの心の内にある善意志を根本的に求めた。この善意志がそもそも各個人の中に存在し、物理学の法則同様、普遍的法則であるのか。例えば、銃を持つことは、アメリカ社会では憲法に守られた権利であり、銃を持つことによって、我が身の安全が確保されると考えられ、心の安らぎを得られるのではないかと推察される。然るに日本では、銃を持つこと自体が大きな犯罪であり、仮に自宅に銃が何かの加減で置かれたとしたら、健全な一般市民は何がしの不安を抱くのではないだろうか。銃の所持という一現象が、場所が変われば大きく意味合いが変わってゆく。
別の例としては、日米の法的見解の根本的相違として、知的財産所有権の問題がある。日本人は一般的に「知的財産権」というものへの認識が極めて薄い。ところがアメリカは1980年代から、日本の自動車や電子産業に対抗するため、バイオ産業を国の基幹産業の一つと位置づけ、特許を重視した法体系や研究システムの整備に乗り出した[1]。2002年6月19日に、米ハーバード大で免疫抑制剤の開発に有望な遺伝子研究をしていた日本人女性研究者が、産業スパイ法違反で逮捕されたのは記憶に新しく、01年5月にも米国でアルツハイマー病の研究をしていた理化学研究所の元研究員らが起訴されている。いずれも優秀でまじめな日本人研究者ではあるが(周囲の評判)米国の知的財産権戦略の厳しさをどの程度認識していたかは疑問である。米国では1996年に経済スパイ防止法が制定された。産業スパイに対する刑事罰は厳しく、組織に対しては500万ドル(約6億2500万円)以下の罰金、個人に対しては50万ドル(約6250万円)の罰金と十年以下の禁固刑である。産業スパイが海外へ秘密をもらした場合はさらに厳しく定められている。これは知的財産が一企業だけではなく国の重要な競争力の決め手になりつつあるからである。アメリカのコンピュータ関連の会社でIBMに訴えられたことのない会社はないとさえ言われている[2]。
一方、日本では、02年7月3日に政府の知的財産戦略会議が大綱をまとめたにすぎず、企業や政府の知的財産保護への本格的な取り組みはこれからのことである。知的財産の法意識が米国に比べ大きく食い違うといわれるゆえんである。
米国で研究した研究者の報告では、研究所と交わした契約書は英文で40ページにも及ぶ[3]。実際に実験をしたり成果を出したりしていなくても、ノートに書いた研究のアイデアすら研究所の所属で、研究所を移るときにはその利用の許諾を受けるための新たな書類を作成する必要があるそうである。
また、極端な例ではあるが、「人を殺すことは罪悪である」というおそらくより人類的普遍性を持つと思われる思想に関しても、文化人類学の報告では、否定されうるものがある。東南アジアの一部地域では、その村に無断で侵入した異邦人は殺害せねば、その村の男たちは罪悪感に囚われるそうである。人を殺すことで罪悪感が生まれるのではなく、人を殺さないことで罪悪感が生まれる。もともと普遍的な善意志というものがあるわけではなく、社会的文化に依って、人間の道徳は形成されると思わせる実例ではある。
この様に、一つの事象に対して、場所が変わることによって認識も行動も道徳も大きく異なる現象が存在することは、人間の普遍的な善意志の存在を疑わせる事例であり、物理学の自然法則とは根源的に次元が異なるのではないかと思わせる。歴史的に見れば、ガリレオ・ニュートン・アインシュタインといった著名な学者の巨大な功績をもあいまって、物理学は最新テクノロジーと結びつき我々の生活を本当に変えた。然るに、道徳の方は、個々人を見ればどれほど人間的に道徳性が向上したか疑問ではある。同時に、犯罪も現実に起こってはいるが、戦乱に明け暮れた印象の強い中世の暗黒から、ゆっくりではあり一時的には後戻りをした瞬間もあったが、社会が全体としては善意志という輝かしき精神を拠り所に道徳秩序向かって少しずつ前進しているようには信じられる。心の英知・善意志を目覚めさせるには、他の精神の発達と同じく粘り強い努力と時間が必要なのだろうか。実に、カントは人間の善意志があってほしい、それにより秩序立てられる道徳概念が自然界における物理法則の如く存在してほしいと願う、理想論者ではなかったか。
人間の善意志を強くイメージし、その影響下に全人類に及ぶ道徳哲学を厳然と秩序立て、人間の崇高な神性を完成させたかったのではないかと想像される。そこにこそパスカルのいう「人間はよく考えねばならない、よく考えることに努めよう」という人間の存在理由と、『道徳形而上学原論』をさらに研究する現代的意味があるのだろうと思う。