分野:日本文学
課題:三島由紀夫「金閣寺」の現代的考察
3200字
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『近代日本総合年表』を繰ると、1950年7月2日に金閣寺徒弟林養賢の放火により金閣寺は全焼し、翌3日にはその母親が保津川で投身自殺した、とある。その9月に小林秀雄「金閣焼失」が発表され、6年後の1956年に三島由紀夫が「金閣寺」を書いている。1995年3月20日に地下鉄サリン事件が起こり、12名が死亡し5500人の重軽傷者が出た。2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起こり、2801人が亡くなった。(うち24人は日本人)しばらくして報復に出たアメリカの軍事行動は連日大きく報道されている。例えばアフガニスタン南部ウルズガン州の結婚式場が披露宴の最中米軍機に誤爆され、48人が死亡し117名が負傷した(毎日新聞)と伝えている。更にテロから一年を過ぎ、アメリカはイラクの大量核兵器製造を理由に、「テロ撲滅」の大義名分のもと、テロを未然に防ぐ為には先制攻撃しかとる手段がないとする強硬な論調を連日報道している。全世界は、米の独断的な軍事行動がいつ発動されるのかと、固唾を呑み見守っている。
 「テロリズムは比較的小さな代価で大きな効果を生む」と、『世界大百科事典』は説明する。そもそもテロリズム(terrorism)という言葉は、O.E.D(Oxford English Dictionary)に依ると英語に於ける初出文献の執筆年は1795年とある。フランス革命の直後であるから、ジャコバン党独裁の恐怖政治あたりから使われる様になったのであろう。


 テロリストに共通する資質があるとすれば、深い闇の様な不幸を背負っていると言うことである。その不幸とは、資産や門地といった外形に依らない、深い心の中の認識である。それは深い恨みの感情であるともいえる。それはどうしてこの世には犯罪が生まれるのだろうと言う根本的な疑問への回答も含まれているようでもある。幸福な感謝に溢れた人間は、他者もまた幸せにしてあげたい、社会に何か良いことをしてあげたいと、単純な素直な感情をもっているものである。それは花がだれ一人見るものがいない山奥でも美しく花開かれずにはいられない様に、春には鳥が歌わずにはいられない様に、純粋な単純な感情である。
 しかしそれとは正反対の悪の感情を炎の如く燃やしている一群の人がいる。人を傷つけ殺したい、この(あの)社会が許せない、滅亡させたい、あの対象(建造物)を壊滅させたい・・といった負の感情である。


 「金閣寺」の主人公の溝口と柏木、アメリカ同時多発テロリストとオウム真理教徒との錯綜を何度も味わいながら「金閣寺」を読んだ。9.11と前後したので、TVで様々なドキュメンタリーが組まれている。NHKの特集に依ると、テロリストの一人の経歴は、航空学校での成績は極めて優秀。進級試験があると普通の生徒は二三度と失敗を積み重ねてようやく次の段階にステップアップできるのだが、そのテロリストは、総ての試験に一回で合格している。教官の一人は「今まで私が教えてきた中で、最も優秀な生徒であった」とまで証言している。休み時間には普通の生徒はガールフレンドのこととか車の話しで盛り上がるのに、彼はそういった会話には一切加わらず、黙り込むか、航空機戒の事のみを話題にしていたそうである。オウム真理教の実行犯も、学歴社会の見地からは最高の経歴をたどり、今は死刑を求刑されている受験秀才が何人かいる。これらテロリストに共通するものは、もし彼らが犯罪を起こさなかったならば、有能な社会人として活躍できる優秀な資質に恵まれていたことである。凶人と病者と悪人。凶人は一般に精神病の範疇に含まれ、病者に分類される。しかし、「金閣焼失」で小林秀雄は後世に残る見解を示している。「私が凶人達と交際した経験では、いつも相手を病人と感ずるよりも寧ろ悪人と感じた」。凶人と悪人の共通項あるいは本質はどのように考えられるか。それは強さであると私は思う。それ故、弱者である病人の対極として、凶人=悪人がいると思われる。そう思えば、善人は、弱者の感じがしないでもない。
 金閣寺とNYの貿易センタービルが私の幻影として重なるのは、9.11の同時多発テロという行為以降、世界の認識は大きく変貌したためだろう。NYの貿易センタービルの跡地グラウンドゼロに何を建築するのか、未だ決定出来ず、全世界からの良いアイデアを募集しているそうだ。突飛な想像ではあるが、金閣寺もしくは五重塔を建立するという考えは如何であろう。もともと五重塔をはじめとする仏教建築は釈迦の身体を表現しているそうである。身体=建築物という発想は、欧米にはないのではなかろうか。


 『金閣寺』の主人公である溝口と、その溝口の精神を助長させる極めて重要な役割を負いつつ沿うように登場する柏木は、二人とも顕著な障害者である。溝口は吃音、柏木は内翻足(両足の奇形)という、少年から青年に成長する過程で、甚大な影響を心に及ぼすと思われる、他人からも一目瞭然といった障害者である。その恨みが深い精神の闇の底で発酵したのが、「金閣が焼けたら・・・、金閣が焼けたら、こいつら(平凡な健常者)の世界は変貌し、生活の金科玉条はくつがえされ、列車時刻表は混乱し、こいつらの法律は無効になるであろう」という障害者と生きざるを得なかった溝口の内心である。「自分たち(平凡な健常者)のかたわらに、何食わぬ顔をして、一人の未来の犯人(溝口)が火鉢に手をさしのべていることに、少しも気付かぬ彼らが私(溝口)を喜ばせた。」更に柏木の「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるのは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるのだ。認識の眼ら見れば、世界は永遠に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。・・・この生を耐えるために、人間は認識の武器を持った・・・それだけだ。」という見解に対し「生を耐えるのに別の方法があると思わないか」疑問を投げ「ないね。あとは狂気か死だよ。」と自身の最高の人生哲学を暴露する柏木に対し、対極にいる溝口は「金閣寺」に於いて最重要な発言をする。「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない・・・世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」。


 そう、行動が認識を変えて行くのだ。思うに溝口と柏木は心身両方の障害者として描かれている。むろん、心が健全な肉体の障害者もいれば、肉体は健全でも心が障害者である人間もいる。溝口と柏木は二人合わせることによって、健常者となる様に想像される。どちらかに偏っているため、人間として完結せず、最終的には破滅してしまう。また「金閣寺」はこの後、認識の美意識に議論を昇華させえている。障害者(溝口・柏木)が健常者(美・理想・その具現としての金閣寺)を心底恨み排斥し壊滅させようとする精神の重奏低音が全体を通じて流れている。そして、溝口は「金閣寺」の最終的な結論に行き着くのだ。「美は、これらの各部の争いや矛盾、あらゆる破調を統括して、なおその上に君臨していた!・・・美は細部でもあり全体でもあり、金閣でもあり金閣を包む夜でもあった。・・・予兆は予兆につながり、一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いわば金閣の主題をなした。そうした予兆は、虚無の予兆だったのである。虚無がこの美の構造だったのだ。・・・それにしても金閣の美しさは絶えることがなかった!その美は恒にどこかしらで鳴り響いていた」。迫りくる貿易センタービルに突入するまさに直前に、優秀な頭脳を持つテロリストの胸中に去来したものは、米への憎悪のみであったのであろうか、それとも圧倒的な貿易センタービルの巨大さ、構造美であったのであろうか?個人を支えている哲学が身体障害というコンプレックスであろう(溝口)と、歴史的な国家認識であろうと、最後に決断し行動し認識し感じるのは究極の一個人である。その一個人として、溝口と柏木とテロリストが私の中で錯綜した、9月11日でなければ書けない研究論文ではある。


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