塾長の思索

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研究思想
2004/6/21
人間とはある思想の塊である。以下は塾長が人生の折々に研究した思想家である。彼らの思想に全面的に追従するのではなく、現時点までの自己にとり有益であったと思われる思索が彼らに依って啓示されているということである。これらは自己紹介の学問履歴となりうるであろう。評論家の草柳大蔵からの換言であるが、現代社会において学歴とは学校歴の省略と堕落している。ある人の学校変遷履歴を紹介しても、その人の知性や人間性はあまりわからないというのが、ものを考える人間の端的な感想であろう。学歴とは文字通り、その人の学びの歴史と定義づける必要がある。このような学歴である学びの歴史の開示こそ、第三者にはその人の知性や人間性を推察するのに望ましいと思われる。
カント、パスカル、ルソー、ゲーテ、アレン、デカルト、コリンウィルソン、マズロー、ドラッカー、孔子、荘子、老子、三木清、西田幾多郎、本多静六、吉田松陰、鈴木大拙、
外遊先:アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、ロシア、中国、ギリシャ、地中海地域
美の本質
2004/8/10
金田一春彦の手による『日本語』(岩波新書)は、日本語文法の面白さを、円熟した学者魂が語る名著である。その最終章に美の本質がさりげなく書かれている。人類が執筆した文章の中でも際だつ知性と愛情を遺憾なく発揮する、二行がある。語らしむる者を沈黙させる文章力とはこの様なものである。その二行は言う。

お茶が入りました
平凡な言葉であるが、何と美しい日本語であるか。

思わずうなりきるような、圧巻というほかない名文である。知性と、感情と、高貴な人間性が昇華され得た極地である。美の本質はここに面目躍如となる。ここに説明され尽くしているのである。これが驚嘆すべき文章である事を知るものは、人生の幸福者というものであろう。
美の本質とは人生の本質でもある。つまり、美しさとは、感じるものの心に宿るということを、この短い文章は教えてくれる。この章の題目は「他人への配慮」である。
まるで映画のワンシーンとはちがっていた
2002/3/17
「まるで、映画のワンシーンのようだった」2001年9月11日の米テロ事件を、さまざまな立場の方々がこのように比喩した。メデアのインタビューで、職場で、学校で、家庭で、おそらく世界中の、事件に巻き込まれなかった第三者の最大公約数とも言うべき感想が、コノ言葉に集約されるであろう、映像世代の雑感ではある。外国旅行をしていた著名な作曲家は、言葉が分からぬ異国のテレビが、何故に一日中同じ映画のワンシーンを流し続けるのか、いぶかったという。しかし、あの映像を一瞥した鑑識眼のある映画(像)関係者は、「あまりにも作られた映像とは違っている映像の重量感に」、作られた映像の無力・限界と、事実を映し出す映像の重みに圧倒されたに違いない。「まったく映画のワンシーンと違っていた事実の重量感」を感じるに違いない。映像を日々見慣れているからこそ、その映像をていねいに見る訓練を見につけることによって、真実と虚構の大きな溝に気づくはずだ。
 食料品の偽装事件がその後日本で頻発している。これも、メデアでの意見は、まさに判で押したかのように「何を信じていいのか分からない」というものである。十数年前、富士見台病院事件と呼ばれる重大事件があった。この産婦人科を受診した婦人に、医者が「子宮が悪い。すぐに摘出手術をするように」と言う。多くの婦人は、その言葉に盲従し、健康な子宮を摘出されたという、凶悪事件である。複数の病院で診察を受ければ回避できたであろう悲劇が、いとも簡単に起こっている。前者の食料品偽装事件の「何を信じていいのか分からない」の回答は、「自らの感覚を信ずるべし」ということになろうか。自らの感覚と思考力を常日頃養い、敏感にする、このことが、現代社会の虚偽を的確に見抜き、悲劇から回避できる手段であろう。技術の発達が、そのまま個人の頭脳と精神と肉体の脆弱さに直結する現代だけに、熟考に値する事件ではある。
花粉症の治し方
2003/4/23
花粉症の方はいらっしゃいますか。症状が軽減し、ほとんど気にならなくなる方法を試してみて下さい。お金もかからずとても簡単です。この方法で私は花粉症が治り今ではまったく気になりません。もっとも生きていますので、時にはくしゃみもしますが。
その方法とは、くしゃみが出るたびに、「ありがとうございます」と、身体に本当に感謝することです。同時に鼻の両脇を、人差し指でできるだけ数多くしごきます。鼻の粘膜に外側から刺激を与えるのです。こつは、不思議な身体機能に対して(異物が入るとくしゃみをするという神秘)心から感謝をするということです。信じる気持ちとしごく回数に比例して症状は軽くなります。
瞑想
2003/5/12
世界的自動車メーカーの社長であり、経済界にもその発言が影響力あり得る人物といえば察しがつくと思います。その人物が、年始のNHKの特別番組で以下の様な発言をしていました。「瞑想などしても時間の無駄である。何にもならない」と。おやと思い、奇異な感じにうたれました。それは二重三重の心理分析が折り重なる奇異な感覚でした。奇異感覚の一つをあげますと、この方は瞑想をまったくご存じないといえるものでした。恐らくこの方は瞑想を何か事業の発想を生み出す契機の様に捉えているのでしょう。瞑想とはその最中天からお告げの如く事業上の解決策が浮かんでくる手段であると考えていらっしゃる様でした。
これは、瞑想への大いなる誤解です。真の瞑想を経験した事がある人は、瞑想をその様に捉えていないと思われます。それは、心身のエネルギーが蘇る無言のプロセスです。それは、心身がリフレッシュされる最上の身体コントロール方法なのです。独立したての頃、私は全てを一人でやらなくてはならないため、それは忙しいものでした。睡眠時間3時間は良くありました。体は疲れているようですが、心は覚醒しています。昼間、忙中閑有り。そんなとき、瞑想するのです。30分も瞑想すれば、本当に活き活きと心身が蘇るのが分かります。瞑想とはこれほど優れた行動学なのです。
パソコンのゆくえ
2004/3/22
最近はあまり言われなくなりましたが、一時期「脱パソコン」「非パソコン」という造語が垣間見られました。論調としましては、「パソコンの時代は終わった、これからは携帯をはじめとするハンディツールの時代である」という論旨でしょう。この命題は、思索するというパワーが真偽を実に的確に判断しえる好例を提供しています。
パソコンの画面はデスクトップと呼ばれています。デスクトップとはdesk topであり、机の上です。つまりパソコンの画面は机の上なのです。それをデジタル化し、大量の文章やデータ、画像を保存、検索し易くしたのがパソコンというツールなのです。つまり、「脱パソコン」「非パソコン」という言い方はつぎの様に言えます。「脱つくえ」「非つくえ」と。机がなくても思索は出来ますでしょうし、簡易型のポータブル机も沢山ありましょう。しかし、人類は数百年に渡り机に向かって文章を書き、机に向かって思索をしてきました。恐らくきちんとものを考えるご自宅の書斎には、どっしりとした机があると思うのです。机に向かって思索するとは人間知性の基本であろうと思われます。人間の骨格や形態が大きく変化しない限り、机とは知的生活において必要なものの一つでしょう。
これは、「脱パソコン」「非パソコン」なる論調が如何に愚鈍な表現であるかの証左ではないでしょうか。

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